日本クレアス税理士法人大阪本部の 愛甲 です。
平成から令和にかけた大型連休、皆様はどのようにお過ごしでしたか?
私はひたすらに油絵を描いていました。描いて、有志で展覧会を開催して、見に来てくださる方とお会いして…という活動を行っていました。
皆様は絵を見ること、描くこと、お好きですか?
私の趣味である油絵は、素人レベルではありますが、なんとか学生の頃から下手の横好きでこの年まで続いております。おばあちゃんになっても続けられる趣味がほしいな、となんとなく始めたことがきっかけでした。
ありがたいことに、作品に対してお褒めの言葉を頂くこともあります。
「この絵が好き」「どうやって描くの?」
「写真のようだね」「私もこんな絵描いてみたいな」
「撮ってもいいですか?」「筆づかいがすき」「色合いがすき」
大変ありがたいことで、身に余る言葉だなといつも感じます。
ですが、お気づきでしょうか。この中でひとつだけ
描き手にとってはあまり嬉しくはない言葉があるのです。
(もちろん、ご厚意は理解していますし、不遜であることは重々承知なのですが。)
絵を描くとき、大半の方が、描きたいモチーフを目で見て、頭で何かを感じて、手を動かしそれを筆で表現しようとしますよね。
描きたいモチーフを目で見て、それを紙・キャンバスに変換する際、そこには必ず、「頭で何かを感じる」という過程が介在します。
例えば、目の前に夕焼けが広がっているとき。それを「美しい」「雄大な」もしくは「物悲しい」「どこかノスタルジック」という風に感じるのは、紛れもなく私たちの頭の中での話です。
絵画というものは、あらゆる技術・絵の具・手腕を駆使して、その描き手の頭の中を
いかにして第三者に視覚を通して伝えるかという試みだ、と
私は自分の中で定義しています。(未だぜんぜん何も伝えられていない未熟者の意見ですのであくまで「試み」としています。)
ということは、です。
人間が持つ技術の中で、「目の前の光景をなるべく視覚情報のままに紙(もしくはデータ)に変換する技術」がひとつだけありますよね。
シャッターボタンひとつで変換ができる、すばらしい技術です。
その技術と、絵画というものは、まったくの別ジャンルであることを私は常に感じており、
そのためお褒めの言葉を頂くなかで、そのジャンルに例えられてしまうと、どうしてもひっかかってしまうのです。また、多くの絵描きの方にとってはそういった感覚があるのではないかな、とも思っています。
だんだんとお分かりいただけましたでしょうか。
以前、制作した絵を飾った際に、「写真のようだね」と言われ、自己嫌悪でおおいに落ち込んだ記憶があります。写真のように描かれ、「写真のようだ」と感じさせる絵、なんだそれって、写真でいいじゃん。と思うのです。
(写真という芸術分野を否定する意味では決してありませんし、写真にだって情緒・勘定を込める手法があるということも理解してはいるのですが。)
このような考えはもちろん万人が当たり前に持つものでもないですし、何より自分の未熟さが招く結果なので、落ち込むのならば少しでも努力すべきなんですけれどもね。
私が尊敬する画家の一人、三重野慶さんのお言葉を紹介させてください。
“写真のように描きたいとは思っていません。
リンゴならいずれ腐るように、
人なら産まれて死ぬのだというように描くのが写実。
ヒトならその命や心を含む存在まで、無機物ならその物質の存在まで描きたい。 “
いつか、私もおばあちゃんになる頃には、少しでもこんな「描きたい」絵を描けるように趣味を成長させていけたらいいな、と思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。